◆ ブリ養殖発祥の地
ブリ(ハマチ)養殖発祥の地、引田は、野網和三郎氏(ワーサン)が昭和3年(1928年)に、安戸池において、世界で初めて海水魚であるハマチの海面養殖の事業化に成功した所です。
当時、ワーサンは、行き詰っていた内海漁業の窮状を救うため、また、国民に良質なタンパク源としてのハマチを安定的に供給することを念願して、安戸池での研究を開始しました。
彼は、ブリを始め、マダイ、フグ、カキ、真珠貝などの様々な魚介類の研究を行い、日本における海水魚養殖技術の先駆者となりました。
これらの研究の中で、最も事業ベースで成功したのが、ハマチ養殖だったのです。
このようにワーサンは、日本において、とる漁業からつくる漁業へと、沿岸漁業の流れを大きく転換させるきっかけを作った偉大な人です。
現在、引田漁業協同組合の生産者は、彼の生涯をかけた挑戦の成果であるハマチ養殖を引き継ぎ、様々な試練を乗り越え、現在はブリ養殖業としてその事業を継続しています。
◆ 赤潮の試練
西日本沿岸の漁村で広く普及していたハマチ養殖に大きな試練が襲ったのは、昭和47年のことでした。播磨灘で赤潮が発生して大きな被害が出たのです。
引田沖でも大量に養殖魚がへい死し、昭和52、53年にも再び大きな被害を受けました。
その後、赤潮危険期に安全な海域へ避難するなどの対策を取っていましたが、経営的な負担が大きいため、引田沖での養殖を継続すべく、思い切った養殖技術を開発しました。
それが、大型小割生簀だったのです。
新技術(大型小割)
一般には、魚の養殖は、1辺が10〜12m程度の四角形の枠に、深さ数mほどの網を取り付けた小割生簀で飼育します。
しかし、このような小型の網では、赤潮が来たときに魚が逃げる場所がありません。現に、赤潮が来ると、魚は一斉に海底に向かい、網を下に向かって突き抜けようとする行動を示します。
引田沖の養殖漁場は水深が25m〜35m程ありますので、網の大きさを極端に大きくしてやれば、魚は赤潮から逃げられると考えたのです。(赤潮プランクトンは、密度が濃い水深が限られています。)
実際に引田沖で、1辺が40mの大型小割を用いた試験を行い、大型小割の有効性が確かめられました。
それ以降、引田漁業協同組合では、大型小割を使用して、引田沖でのブリ養殖を継続しています。
(現在は、25m〜30m四方のものを使用しています。)