◆ 養殖業の始まり
引田漁業協同組合における魚類養殖の歴史は、1928年(昭和3年)に野網和三郎(ワーサン:和三郎の愛称)が
安戸池(東かがわ市引田)でハマチ養殖に成功したときから始まります。
地元引田の網元の3男であった和三郎は、当時の漁師の厳しい生活とその将来について、強い危機感を持っていました。
当時、瀬戸内海の漁業は、昔ながらの漁法でタイやサワラを獲っていましたが、大きく漁獲が伸びることはなく、頭打ちの状況でした。
そのため、香川県から海外への出漁が盛んになりつつありましたが、厳しい気象条件などによる遭難や不漁が多く、事業の失敗により
網元から雇われ漁民に転落する人が増え、下層漁民が増加しているような時勢でした。
和三郎は、このような状況を肌で感じて育ち、漁民の窮状を何とかしたいという思いから水産学校に学び、当時の先端の学問を修めました。
卒業後は、引田に戻り、早速学んだことを生かすため、安戸池を使った魚類養殖試験を開始。父、佐吉の全面的な協力のもと、
試験開始後、わずか2年目にして、養殖に成功しました。
これが、日本における海面での魚類養殖の最初の成功事例となったのです。
◆ 養殖業の中断
その後、安戸池での養殖はハマチを主体に、マダイ、カキ、フグなどの養殖試験に次々と着手。
しかし、昭和16年、戦時統制によって餌料を入手できなくなり養殖事業を中断しました。
戦後の経済統制が解除された翌年、昭和26年に養殖事業を再開しました。
翌昭和27年の漁業法の改正により、引田漁業協同組合に事業が引き継がれました。
◆ 養殖業の進展
安戸池の養殖事業は観光化し、その盛況ぶりは全国の注目を集めました。
一方、県内では、戦後昭和25年までは、養殖施設として築堤式(固定式施設)が主流であったため、
大きな資本が必要で、経営体は僅かでした。
しかし、この年化学繊維の魚網が発明され、網仕切り式施設で養殖できるようになると、県内でも
養殖事業に着手する人が増え始めました。
その後、昭和30年代になって、小資本・少人数での経営が可能な、小割生簀が普及すると、
急激に養殖が盛んになり、香川県を含めた西日本各地で養殖が広く行われるようになりました。
和三郎は、養殖事業から離れた後は、県の水産業関係団体や海区漁業調整委員などの要職を歴任し、
「養魚秘録海を拓く安戸池」を出版した昭和44年秋、病没しました。
彼は、自分の生涯をかけた養殖業の発展を目の当たりにすることができたことと思います。
◆ 養殖業の試練
このころから、日本は高度成長期に入り、瀬戸内海の富栄養化が急速に進みました。
そのため、赤潮が頻発するようになり、養殖業は大きな被害を受けました。
この赤潮を避けるため、夏場、赤潮が発生しない海域へ、小割生簀を避難するという避難養殖
が行われましたが、これでは、引田の海での養殖が続けられないという危機感から、引田漁協では、
新たな養殖技術の開発に取り組みました。
それが、大型小割生簀だったのです。
引田の海の水深が30m前後あることを利用し、小割生簀を巨大化して、魚が生簀の中にいても赤潮から
逃げられるようにしました。
以後は赤潮が発生しても、被害を免れるようになりました。
◆ 養殖業のブランド化
引田漁協では、引田の海での養殖を、様々な工夫をしながら守ってきました。
しかし、出荷した魚の価格は、市場での価格に左右されてきました。
最近では、輸入水産物により全体的に価格が低下傾向にあり、さらに近年のデフレにより、
せっかく良い魚を作っても原価割れしてしまうことも起きています。
このままでは、養殖業を廃業する人が増え、引田の海と養殖を守っていくことができなくなるかもしれません。
そこで、引田漁協では、養殖魚のブランド化に取り組み、情報発信に努めて生産者の作った養殖魚の良さを
知っていただき、採算のとれる健全な養殖経営を目指すことにしました。
その第一歩が、「ひけた鰤(ブリ)」なのです。
関連リンク
県情報誌「かがわ さぬき野」2005年夏号 人物伝「野網和三郎」